TOP

読み聞かせについて

絵本を探す ブ ロ グ

絵本の読み聞かせ よみっこ

 情を込めて読んではいけないのか?
    感情を込めて読んではいけないのか? も く じ
 ■ 棒読みをすることだろうか?

  

 ■ 読み手の解釈を押し付けてしまうから?

  

 ○ 感情の入らない読み聞かせは存在しない

  


   棒読みをすることだろうか?

  「感情を込めないで淡々と読みましょう」ということは、読み聞かせをする人たちの間で、たびたび言われることです。
 私は、この言葉は、非常に誤解を招きやすい言葉だと思っています。

 感情を込めないで淡々ということは、一本調子で読むということなのでしょうか? それでは、楽しいはずの読み聞かせが、おもしろくなるとは思えません。
 おそらく、そういうことではないはずです。でも、これから読み聞かせを始めようとしている人が、「感情を込めないで淡々と読む」という言葉だけを聞いたなら「棒読みをすることだろうか?」と考えてしまうことは無理のないことです。
 だからこそ、しっかりとした説明が必要なのです。

もくじに戻る

   読み手の解釈を押し付けてしまうから?


 もちろん今までも「感情を込めないで淡々と読まなければならない」理由は、説明されてきました。

 その理由には、「感情を込めて読むことによって、作品のイメージが固定化されてしまう」ということや「読み手の解釈を聞き手に押し付けてしまうことになる」ということがあります。
 聞き手が、何の制約も受けずに作品に対して自由に想像を膨らますためには、読み手の感情は妨げになるというのです。

 なんとなく納得してしまいそうですが、本当にそうなのでしょうか?

-

もくじに戻る
    の入らない読み聞かせは存在しない
   読み手の体を通して届ける

 読み聞かせは、多くの場合、読み手と聞き手が実際に会って、本に書かれてある文字を読むことによって(絵本の場合は絵も見せることによって)本の内容を伝えます。
 絵本や童話の「本」そのものを手渡すわけではありません。
 本の内容は、読み手の体を通過して、聞き手に届けられることになるのです。

 読み手の体を通過した内容は、読み手の解釈や感想などの思いが、必ず含まれることになります。
 感情の入り込まない読み聞かせは、ロボットではないのですから不可能です。読み手の解釈や感想の入り込まない読み聞かせは、存在しないのです。
   ● 最初のワクワクドキドキを忘れない

 解釈や感想の入り込まない「読み聞かせ」が存在しないということは、意識をしなくても感情は入り込むということです。それが、自然なことであり当然のことです。

 けれども、感情とは何なのでしょうか?
 いろいろなものがあると思いますが、一番大切にしなければいけないものは、最初に自分で本を読んだ時に得た感情です。

 本を読んでいる時または読んだ後に感じる「すごくおもしろいなあ」「感動したなあ」「悲しかったなあ」「恐かったなあ」というようなことから始まるものです。
 それは、なんだかよくわからないけれど、体がワクワクしているという感覚かもしれません。ドキドキして、何かを始めたくなったという思いかもしれません。

 その後で、何度も本を読み返して、いろいろな解釈が加わったとしても、最初に感じたことが変化することは多くはないはずです。

 本を繰り返し読むことは、最初に感じた「おもしろかったなあ」を再び味わいたいということに加え、その本をもっとよく知るために、新しい発見をしたいという気持ちもあります。
 もっとよく知るということは、「おもしろかったなあ」と感じたのは何故かを探ることでもあります。ということは、「おもしろかったなあ」は、自分自身の解釈を進めていくための核になるものです。その核の部分が、そう簡単に変わることはないはずです。
 私は、読み聞かせをする時には、この部分を大切にしたいと思うのです。
   ● ひとりよがりは絶対にいけない

 読み聞かせは、読み手と聞き手がいることによって成立します。
 そして読み手は、聞き手に寄り添うような気持ちになって、いつでも聞き手を意識していなければなりません。
 ですから、本から得た感情を大切にすると言っても、注意をしなければならないことが2つあります。

 1つめは、聞き手を無視して感情を込めてはいけないということです。
 読み手の本に対する思い入れが大きいだけではダメです。聞き手に聞いてもらおう、分かってもらおうという気持ちがなければ、聞き手は、誰も耳を傾けてはくれないはずです。

 2つめは、場にそぐわない過剰な感情の込め方をしてはいけないということです。
 過剰に感情を込めたことによって、聞き手が「引く」ことのないようにしなければいけません。お笑い芸人の繰り出すネタやギャグが、あまりにもつまらなかったり、その場にそぐわないものだった場合、観客の気持ちが、文字通り潮が引くように遠くへ行ってしまうことと同じです。

 思い入れが大きいだけだったり、その場にそぐわない過剰な感情の込め方をしたならば、気持ちがいいのは読んでいる本人だけです。
 本自体が、どんなにすばらしくても、聞き手は、おもしろくないどころか嫌悪感を抱いてしまうことにもなりかねません。

 読み聞かせは、どうすることが聞き手にとっていいことなのかを考えることが大切です。
 ひとりよがりになっては、絶対にいけないのです。
   感情を体の中に蓄える

 ここまで来れば、「感情を込めないで淡々と読まなければならない」ということが、なぜ言われるようになったのかが見えてきます。

 読み手が、聞き手を無視した感情の込め方や、場にそぐわない過剰な感情の込め方をしないように、「ブレーキ」をかけるための言葉だと思えばいいでしょう。

 「感情を込めないで淡々と読まなければならない」というのは、「形」を短い言葉で言い表そうとしたものでしかありません。

 ですから、形だけ淡々と読んだとしても棒読みになるだけです。
 瞳の書き込まれていない人形と同じで、魂が抜け落ちていることになります。
 魂とは、読み手の本に対する感情であり、聞き手を思う気持ちです。

 前に、意識をしなくても感情は入り込むと書きましたが、意識をしてたくさんの感情を体の中に蓄えることが必要です。
 そうすれば、例え、抑揚も少なく声の高低もあまりなく、静かに本を読んだとしても、棒読みとは違うものが出てくるはずです。

「読み聞かせと 芝居や映画の違い」に進む▲

-  
「ボランティア」のページに戻る▲

このページの先頭に戻る▲

TOP


Copyright © 2002 [chaury] All rights reserved.